「クララとお日さま」に見るバーチャル時代の生き方

OB 花田拳多

カズオ・イシグロが生み出す異次元の世界『クララとお日さま』の作者であるカズオ・イシグロ氏が世界に名を広げたのは、2017年10月に発表されたノーベル文学賞だった。当時、日本のメディアが「日本出身」だった彼(5歳で渡英した)を連日一斉に取り上げたので、私も好奇心sに駆られて書店に駆け込んだのをよく覚えている。

「日本人がノーベル文学賞を取ったぞ!」というのは事実とは若干異なるかもしれないが、それでも両親が日本人だという彼には日本人の感性も備わっているはずで、私もその真髄に迫りたいという衝動に駆られた。

いざ蓋を開けてみて、私は言葉を失った。当時の形容し難い峻烈な衝撃を今でも鮮明に覚えている。表題と異なるタイトルではあるが、初めて読んだ(一番推されていた)彼の「私を離さないで」という作品は、私が読んだ小説の中でトップクラスの満足度と感動を与えてくれた。まさに、不動の名作だ。

得体の知らない霊魂のように、読者の心に知らぬ間に住み着き、私たちの心を決して楽にはしない。楽にしない、というのは、何も苦しいことばかりだけでなく、「楽しい」と感じたり、「高揚感」を得たり、寂しさを感じたり、物語の行方に不安を覚えたり、絶えず心を揺さぶってくれる。つまり、読書体験を提供する作家としての役割を十分すぎるほど果たしているのだ。

これは『クララとお日様』も同じだ。そして、それはカズオイシグロという作家の作品に共通するものだ。彼にしか書けない、彼だからこその深みが物語にひっそりと染み付いている。まるで紙の本にいつの間にか付いていた小さな染みのように、時間の経過と共に少しだけ薄くなって存在感を隠しながら、だけれど確かにそこに“ある”という手応えと、目の離せない妖しい雰囲気を醸し出す。言ってみれば、彼の作品には読者の心を自在に操る“魔術”が掛けられている。

『クララとお日さま』の魅力に迫るさて、話を本題へ戻そう。『クララとお日様』にも当然この魔術が掛けられている。その上で、他に本作の特徴と言えば、やはり「AI」の存在だ。クララと名づけられた自律型ロボットのAIが、主人公の少女とAIロボットの専門店で出会いを果たしてから、物語の全てが始まる。

AIやロボットが登場する物語という切り口自体は、目新しいものではない。優秀なAIやロボットの能力で、物語を上下左右へと激しく魅力的に展開し、絶えず読者、或いは視聴者を釘付けにすることはよくある話だ。それは、私たちは人間であり、人間は刺激的なもの、バイオレンス、先進的なものに本能的に目を奪われやすいからだ。

しかし、本作に登場するAIたちは限りなく“人間的”であり、現代のAIとは比較にならない程に高性能にもかかわらず、むしろ人間よりも“不完全”に見える。この点が、『クララとお日さま』の最大の魅力であり、カズオ・イシグロ氏の魔術だと私は考えている。

AIと言うと、昨今私たちの日常でも特別なものではなくなり、その正確さ、精密さ、圧倒的な計算速度などが取り沙汰されていて、その能力や将来性を疑う人はいない。

例えば、十数年前の将棋界では、いくらAIといえどトップクラスの棋士がAIに負けるとは誰も想像出来なかったが、現在はトップを走る藤井聡太さんがAIをベースに将棋を研究しているのも有名な話で、まさに今目の前に、人類がAIに頼る時代が訪れている。

ところが、『クララとお日さま』の世界では、少し様子が違う。本作に登場するクララとその仲間たちも当然学習能力に優れており、また身体能力についてもロボットとなって自律的に行動が出来るので、現代科学以上の世界を感じさせられる。実際、作中には平均的な人間以上の身体能力を備えたAIも登場していた。

そして、だからこそと言うべきか、作中に出てくる人間のAIへの認識は、現代のそれとは異なっている。AIの能力の高さや利便性が当たり前の世界になっているので、誰もがAIを道具として認識しており、まるで現代で人々がスマホを当たり前のように扱い、また次々と新しいものへ買い替えるのと同じように、AI自体を使い倒している(使いこなしている)のだ。

今、人々がスマホへの敬意や感謝の気持ちを持たないのと同じように、AIに対しても、買い替えるだけの機械という認識をどこか深層心理では持っているようだ。まるで、子供のころに愛でていたぬいぐるみが、持ち主の成長と共にいつの間にか部屋の隅に忘れ去られているように、一時期の愛着や関心も、時間と共に色褪せていく。

作中では、常に新型のAIを買い求めようとし、絶えず友達とAIの性能自慢をする子供たちの様子が描写されていた。これは、現代人の関心の移り変わりの速さを暗示している。

しかし、これ自体は悪いものではないと思う。現代は情報に満ち溢れおり、あらゆる刺激や魅力が画面を通して無限に広がっている。そして、その流れが止まることは決してないのだろう。人間の欲深さに反比例するように、私たちが意識できることが少なくなるのは自然なことだ。

逆に、AI自体の処理能力には限界がない(少なくとも人間にはそのように見える)。そして作中では、意識(情報)の処理を得意とするAIであるクララが、人とは違ってこの関心を止めない(止まらない)ことによって、行動すること、追い求めること、その取り組む姿勢の全てが、むしろ人間よりも人間らしく見えてしまう。これが、本作の非常に面白い点だ。

作中では、クララはまるで親の顔色を伺う子供のように、周囲の人間の表情や雰囲気を絶えず観察している。その上で自分が取るべき行動を常に模索しているのだ。そして、主人である女の子ジェシーの病を解決する方法を思考し続け、決して諦めず、自分の身も顧みずに行動し続ける。さらに面白いのは、クララが行きつく病を治す解決方法が、「お日さまのよくわからない不思議な力」という点だ。

実際、人間社会でもいわゆる「スピリチュアル」と呼ばれる超自然的な力の存在が認識されており、かつての量子力学の存在のように、現代科学ではまだ決して明らかにされていないエネルギーや法則があることは間違いない。そのような「不思議な世界」を動物としての本能で感じているのがスピリチュアル的価値観であり、宗教的な価値観と言えるだろう。

そして、AIであるクララのたどり着いた「お日さまの不思議な力」は、私たち人間の世界でいうスピリチュアル的価値観に似たものだろう。AIとしてどのような規則性や法則を察知したかは不明だが、彼女の思考や行動だけを追うなら実にAIらしくない行動であり、客観的に見ればなんとも人間らしい結論だと言える。

クララは、そのような不思議な力の存在を信じ、最後の最後まで追い続けることになるのだ。

ところで、私たち人間は、移り変わる現実や流行、或いは加齢に伴う変化に追いつけず、事実をありのままに受け止められないからこそ、時に本心とは違った行動を取ってしまったり、本来の希望や願いを忘れてしまったりする。

しかし、AIは違う。自分が好奇心を抱いたり、愛着を持ったり、敬意を持ったりした対象には、とことんその意識を注ぎ続ける事が出来る。言ってみれば、彼ら彼女らにも感情のような機能が発生しており(少なくとも作中では)、それらは純粋な幼い子供のように輝き続けている。そして、優秀な処理能力があるからこそ、それらを見失うことは決してない。

人間であれば、自分の無力さや物事の難解さに苦戦し、諦め、気づけば忘れてしまうところが、AIにはそうすることが出来ないのだ。だからこそ、読者はそのような追い求め続ける純粋な姿勢にいつの間にか心を奪われ、クララと深く繋がってしまうのだ。

何故なら、そのような諦めない姿勢こそが、私たちが本当は求めているありのまま自分の姿であるからだ。誰だって出来ることなら、不安や恐怖やトラウマや常識やあらゆる価値観に縛られずに、自分が追い求めるものだけを考えていたいからだ。だからこそ、時に私たちは世界的なスポーツの祭典での選手の活躍を応援し、感動するのだろう。

このように、相対的にAIの方が血の通った人間のように見えてしまい、逆に、人間がただ日常をなんとなく生きているそっけないロボットのように見えてしまうといった心理的な魔術が、本作における大きな仕掛けだと筆者は考えている。

そして恐ろしいことに、カズオ・イシグロの壮大な仕掛けは、これだけでは終わらない。この『クララとお日さま』の物語がその他のカズオ・イシグロ作品と同様に美しく、また心の奥深くに響くのは、どこまでも純粋で応援したくなるようなクララの可愛らしい想いが成就するだけでなく、最後の最後で人間の想いと通じるからだ。ロボットであるはずのAIが、ロボットのように生きる人間を、再び人間らしくしてくれる。

つまり、物語の最後に初めて、人間とAIが本当の意味で心を通わせたように感じさせられるのだ。まるで、死期の迫る老夫婦が、別れの直前に、初めて心を通わせるかのように。その姿はどこまでも美しく、とても涙なしではいられない。AIに学ぶ人生の本質

さて、2021年現在では、世界の五大企業の一つに数えられるフェイスブック社が、社名を「メタ」に変更した。いわゆる「メタバース」の言葉から取ったものであり、これはフェイスブック社がメタバース事業に注力をしていくという宣言でもある。

まさに、時代の転換点だ。バーチャルリアリティと呼ばれる技術がまだ生活に浸透するかしないかの段階の現代では、時代が「仮想現実」へと向かっていることを良く理解している人はまだあまりいない。

だが、その流れは確実に大きくなってきている。まるで山から支流が集まって大きな一つの川となるように、バーチャルな世界はすぐそこへと迫ってきている。「AI、ロボット化」「キャッシュレス化」「リモートワーク」「メタバース経済圏」「5Gからの6G」、上げればキリがないが、まさに今、科学が人間を追い抜いて、あっという間に埋められない差を付けようとしているのだ。

近頃、「スマホ脳」という言葉が話題となったように、既にテクノロジーを使いこなすのではなく、テクノロジーに飲み込まれつつある私たち人間が、果たしてこの先のさらなる時代の進化についていけるのだろうか。

自然から生まれた私たち人間が、最先端の技術とどのように向き合い、そしてどのように付き合っていくのか。また、それらを経てどのような文化を形成していくのか。そのぼんやりと浮かび上がる未来を理解している人はおろか、アイデアが思いつく人はまだほとんどいない。

このままでは、これからやってくるテクノロジーは、私たちに新たな文化をもたらすのではなく、そっと人間らしさを取り去っていくだけかもしれない。人生の目的や死ぬことの意味。そんな高尚なことを考えずとも、何となく生き続けられるのだから。思考をせずとも食べる事が出来、身体を動かさずとも刺激を得られる時代だから。

そして、行く行くは、死すら奪われる世界がやってくるかもしれない。事実、人間の意識をロボットの身体へとインストールする技術の開発は進んでいる。私たち一般市民が何も難しく考えずとも、これからもテクノロジーは時間と共に進化していくのだ。

しかし、絶えず行先を見据えて警笛を鳴らす存在は、いつの時代にもいる。そう、まさに『クララとお日さま』の世界には、これからの時代を豊かに生きていく為のヒントが散りばめられている。美しく純真な心を持ったように見えるAIが動かす壮大な物語は、仮想の世界にも関わらず、現実に生きる読者の私たちの心に、絶えず問いかけてくれる。

人間が人間を超えるような技術と共存する驚愕の世界で、私たちが見失ってはいけないものは一体何なのか。どのような問題に直面することになるのか。そして、人間とは、人間らしい人生とは、一体何なのか?

私たちにとって、空想ではない、本当に心から求めている幸せとは何なのか?昨今のニュースを見ていると、まさに今世界全体で、人類全員がこのことについて問われているような気がしてならない。

そして、そのような未来の文化形成の先駆けとなっている作品が『クララとお日さま』であり、ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロ氏からの世界への問題提起なのだろう。人類の歴史の中で、かつての文豪たちが絶えずそうしてきたのと同じように。

あれほどまでに味わい深く、心に残る物語を通して、私たちの脳裏に心地の良い疑問符を残してくれるこの作品の存在意義は、これからも続くであろう人類の歩みを考えると、並々ならないものだと私は思う。そして、そのような作品を生み出してくれたカズオ・イシグロ氏に続いて、人類の歩むべき方向性を照らす新たな光(物語)が生まれることと同時に、仮想現実・バーチャルリアリティの文化が、私たちにとってより豊かなものとなっていくことに、私は期待したい。その先に、人類にとって共通の明るい未来があることを信じて。

(花田拳多)