バーチャルユーチューバーは君たちの夢を見るか?

山刀道然

文化・浸透・ビジネス。この3つが、驚異的な早さで成長しているコンテンツとは何か。今ならば、一番はビットコインだろう。VTuberは、その次くらいに位置するのではないだろうか。VTuberを知らない人に雑に説明すると「アニメっぽいキャラがしゃべってくれる」動画・生配信コンテンツだ。

彼女・彼ら(以下彼女)、実はYouTubeの登録者が100万人以上のチャンネルが数えきれないほど存在している。これは仙台や広島の総人口にあたる。さらに今は、登録者300万人をこえるVTuberまで出始めているのだ(これは、大阪の人口より多い)。

この脅威。まずはビジネスとして、述べさせてもらう。VTuber好きには興味のない話だと思うが、興味のない人でも想像しやすいからだ。まずは、スパチャ。YouTubeのライブ配信中に応援できる、有料のチャット機能だ。これで稼いだ世界ランキングの上位すべてが日本のVTuberである。月に1000万円以上稼いでいる人は、決して珍しくない。

もうひとつ、VTuberの仕組みを活用した面白い儲けがある。運営による公式ライブイベントだ。AKB48のように、まるでそれが当たり前のように、事務所に所属する彼女たちが集まって、歌い、踊り、トークするイベントだ。それも画面上で、ステージらしき3Dの舞台の上で……。チケットを購入して、だ……。ファンはその状況を不自然に思わないのだが、言葉だけ聞くと怪奇である。しかし、VTuberのファンの総数は少なくとも500万人はこえるだろう。怪奇に思わない人が、500万人だ。

もっとビジネス的な話をすると、例えば数十万人のVTuberファンが数千円のライブチケットを購入するとしよう。まず、武道館の収容人数は14471人だ。VTuberのライブは人数の制限がないのに(実際にはネットの同接続の関係であるのだが)会場費がかからない。細かいところで言うと、購入したチケットは電子メールでパスワードが届くだけなので、印刷代もデザイン費もかからない。つまり、例えばミュージシャンが行う「武道館ライブ」で発生するはずの費用がほとんどかからないのに、その数十倍の利益を生んでいることになる。

「話を聞くとありえない」のだが、それがさも「AKBのようなアイドル」のような存在としてまかり通っている。これは、すごいことではないだろうか。少なくとも5年前にこの話を聞いたら「そんなバカな」と思うはずだ。

サブカルチャーという時代がある。下位文化がメインカルチャーに入るには、どうしても時間が必要だ。今で言うと、漫画があげられる。今から70年前、「漫画なんて読んだらバカになる!」と言われていた時代、手塚治虫の登場によって、漫画がメインカルチャーに君臨するきっかけになった。彼は「漫画はハングリーアート」として、世間の批判をあびながらも日本の文化として定着させようとした。個人的に、メインカルチャーとして誰しもが納得のいく形になったのは『ドラゴンボール』の登場ではないだろうか。つまり、手塚治虫から鳥山明まで、40年近くかかったのだ。そして今、『ワンピース』の発行部数は5億部に達している。途方もない部数だ。『指輪物語』が1.5億部、『ハリー・ポッターと賢者の石』が1億部程度だ。逆に40年でメインカルチャーになるまで発展させるなんて、すごい!

そう思うと(実際にそうだし)、VTuberはもっと驚異的な早さでサブカルチャー時代を置き去りにしている。2016年にデビューしたキズナアイを元祖とするならば、5年足らずでメインカルチャーになってしまったのだ。

「えっ、大衆なのか?」と思うかもしれないが、例えば「千と千尋の神隠し」の動員数は300万ちょっとだ。それと同等のファンを背負うVTuberが存在すると考えれば、頷くしかないのではないだろうか。時代をつくる速度が、他と比例できないほど、速すぎるコンテンツである。映画だって、娯楽小説だって、サブカルチャーとして長い年月を過ごしてきたはずなのにだ。

今ここで、急に本棚に手を取った。思い出したことがある。スーザン・ソンタグの『写真論』で、次のような文章がある。「最近では写真はセックスやダンスと同じくらいありふれた娯楽になった。そのことは、大衆娯楽というものはどれもそうだが、写真が大部分の人にとって芸術ではなくなったことを意味している」(『写真論』 晶文社 1979/4/1 スーザン・ソンタグ (著) 近藤 耕人 (翻訳) P15より引用)

今から50~60年前、写真というものは高度な技術が必要だった。当時はデジタルデータではなくフィルムを使って撮影し、撮影した写真も現像しないと確認できなかったのだ。今では誰もがiPhoneで高画質な写真を撮れるし、Instagramに投稿するときはおじさんだって写真を編集している。「総写真家時代」の現代では考えられないが、50年前にやっと「大衆娯楽」と認知されたのだ。カメラが誕生した19世紀から、いったいどのくらいの期間が必要だったのか、想像してほしい。

かたや5年。VTuberがサブカルチャーとして認識されていたのは、ほんの2~3年ほどの期間ではないのだろうか。

忘れてしまっていることが、ひとつある。彼女らはあくまでアイドルであり、二次元の存在ではないのだ。知見のない者がVTuberのガワだけ見れば、アニメやゲームに登場する美少女・美少年の二次元キャラクターなのだが、しゃべっている彼女は確かに存在している。この「2.5次元」文化の究極が、誕生してしまったのだ。

「PlayStation VR」のVR、「ポケモンGO」のARなどが数年前に流行したが、それらの概念とは比べ物にならない(オモチャと思えるくらい)存在なのだ。だって、アニメの女の子が「リアルタイムでボクに向けてしゃべってくれる、返してくれる」のだから。当然のように彼女らはVTuberの所属(芸能事務所)に所属して活動しているし、ファンの中には、そのVTuberに恋心を抱いている人も数多くいる。それってもう、つまり、「存在する女」なのだ。

残酷な言い方をすると、二次元の存在に恋をしても一方通行となるはずだ。当然話すことはできないし、画面の中からでてくることもない。でも、彼女たちとはコミュニケーションをとれる。一方通行ではないし、通行止めでもないのだ。

一般的に、二次元の存在に恋をすることは難しいが(一般人には難易度が高い)、VTuberとは恋に落ちる。ことが、できる。この本質は「VTuberは人間であるから」につきるだろう。見た目は、二次元のキャラクターだ。でも、本物の愛が生まれるのは、どんな時だろう。その人の性格であったり、本質、趣味、共感ではないだろうか。

例えば一週間の間に彼女の配信を10時間、視聴するとしよう。週5日、2時間配信と思えば、ざらにある頻度だ。考えてみると、月に50時間近く異性と話す機会は、そうそうないはずだ。彼女は(少なくとも今)視聴者の人生に一番介入している異性なのだ。

しかも、選び放題。自分が興味のあるジャンル(ゲーム、アニメ、スポーツ、漫画、映画など)を得意とするVTuberを視聴してしまったら、それは、好きになってしまうことだろう。

ここでまた、スーザン・ソンタグの『写真論』から引用する。「彼は女たちの体を欲しているわけではない。彼が求めているのはフィルムに写した女たちの存在」(『写真論』 晶文社 1979/4/1 スーザン・ソンタグ (著) 近藤 耕人 (翻訳) P20より引用)

つまり、必ずしも現実の女性への肉欲=VTuberへの肉欲ではないのだ。彼女と結婚できるわけではない。それは知っているはずだ。しかし、精神的なつながりや、応援したいなどの「純粋な気持ち」が、それらを超越してしまっている。

現実の女性を「肉欲」として見ていた人が多い昭和の男性たちを考えると、VTuberのファンの男性はだいぶ健全ではないか、と思うことがある。逆に、こんなにピュアな恋心を生み出してしまっていいのかと困惑する。しかも、その恋心の先にあるのは、VTuberの引退である。どうしたって、彼女とは結婚できないのだ。

でも、安心してほしい。彼女たちは、キミたちファンの夢を見ている。キミが彼女を一番に想うように、彼女もキミたちのことを一番に考えているはずだ。ベッドに入り、今日の配信を思い出して「みんな、楽しんでくれたかな…」と。それで、いいじゃないか。

(山刀道然)