サイトウ・アキヒロ
『サイトウ先生ご自身について』
サイトウ先生がゲームクリエイターになるに至った経緯を詳しくお聞きしたいです。
私が物作りを始めたのは、14歳からで、当時はアニメーターをやっていました。宮崎駿さんとかと一緒にやっていました。しかしアニメが好きだったわけではありませんでした。
14歳になったから一人暮らしが始まって、自分で生活していかないといけなくなりましたが、しかしどこも14歳を雇ってくれません。近所の銭湯で営業活動して、おじさんの背中を流したりして「何か仕事はないですか」と聞いたら、「お前は何ができるのかと」言われましたね。私が「学校で絵が上手いと言われていました」と言ったら、「アニメの仕事があるよ」ということでアニメーターになりました。でも書いても一枚百円程度で全然儲かりませんでした。当時『未来少年コナン』という漫画がありまして、それの絵を描いていましたが、こちらに回ってくる仕事は、人が口をパクパクする絵も一枚百円で、五百人くらいが一斉に移動する絵も一枚百円でした。これは仕事としてしんどかったですね。
そのあとに歌舞伎町で水商売したらいきなり儲かるようになって、普通に働けるようになった時点で、アニメも仕事にしていたけれど、儲からないから嫌なんですと言うと、コマーシャルの方が単価いいよということで、コマーシャルディレクターになりました。仕事をしていたら岩田さんを紹介されまして、ゲームを手伝って欲しいと言われました。それからゲームの仕事が増えていき、ゲームディレクターになりました。
私はこうなりたいと思って今の仕事に就いたのではなく、生きていくために始めたことが、気づいたら今の仕事になっていました。ですから自分は全くゲームをしませんでした。ゲームをやっているやつの後ろ姿を見て、こういう風に楽しんでいるのかと分析することが多かったです。だからゲームニクスみたいなものにまとめられたのかもしれないです。
ゲームクリエイターになる以前の映像に関わるお仕事の経験が、ゲーム制作に活きたと思う瞬間はありましたでしょうか。
やはり演出だと思います。どういう風に見せたら、ユーザーはどう思ってくれるかということをずっと考えてやってきました。ゲームはそれにプラスしてインタラクティブでもあります。ユーザーの反応を受け取って、返さなければならない。
その演出の基本自体は、映像クリエイター時代にずっと考えていたのが活きたとは思います。任天堂初期の頃からやっているので、その私のノウハウというのが、結果的には今の任天堂の画面のレイアウトであるとか、ボタンの並びであるとか出現の仕方であるとか、みなさん私が作ったものを参考にいろいろ作ってくれていたので、その方法論が世界のゲームのノウハウとして伝わっていったんじゃないかな、と思っていますけどね。演出という意味では映像で考えていたことがそのまま役に立ったとは考えています。
映像関係の職業を目指す人にアドバイスをいただきたいです。
とにかく多くの映画を見ることをおすすめします。今や表現としてのオリジナルなんて一つもありません。それこそ『シン・ゴジラ』を監督した庵野秀明さんは昔からの知り合いですが、「俺にオリジナルなんてない、全部昔見たもののコピペだ」と明言しています。好きなジャンル以外をたくさん見るとか、幅広く見ることも大切だと思います。あとは『マスターショット』(マスターショット100 低予算映画を大作に変える撮影術)という本がおすすめです。
『マスターショット』はアメリカの映画学校の教科書です。どの位置に役者を配置して、どの位置にカメラをセッティングしたら人間はこういう感情になるという答えが、『マスターショット』にはすべて書かれています。これは映像で何か表現しようとする人にとってはかなり参考になるはずです。残念ながら日本では教えないです。アメリカは理論や論理を組み立てるのに優れた国です。多民族国家ですので、阿吽の呼吸なんてないからです。共通の認識のものを作るのに優れているので、アメリカの書籍を読むことをおすすめします。
大切にしている言葉を教えてください。
「人のために生きる」ですかね。
わたくし心を無にして、人のために生きる。先程、アメリカはいろんな民族がまとまっている国だと言いましたが、他人のために生きる民族は日本人だけですよ。宝石みたいな民族だと思います。日本人に生まれた以上は、そういう風に生きたいと思っています。
やはり作ったものが売れないと落ち込んだりすることがありますか。
物を作っているのが好きですけど、結果はまったく興味ないです。売れたとか売れていないとか。これがクリエイターとしての私の一番の欠陥部分です。そこに対しての野心がありません。作っている間が楽しくて、出来上がったあとの評価は全然興味がないです。私が結婚して妻に「何カッコつけてるの、評価気になるでしょう。」なんて言われましたが、そのうち本当に興味ないのねと幻滅までされましたね。
ゲームでもいいし、テレビや漫画でもいいし、特撮の戦車を作っていた時もありましたし、何とかマンの剣も作っていました。なんでもいいです。でもその何とかマンの剣を一緒に作っていた仲間が社長になって、みんな偉くなってしまいました。私はずっと二等兵のままですが、楽しくてしょうがない。作ってきたものの結果に対しては興味がありませんが、60歳になったいま、いまだ現役で通用していることが嬉しいです。
たくさんのお仕事をご経験されてきたと思いますが、自身の過去を振り返ってみて何か思うことはありますでしょうか。
「みんな偉くなっちゃったな」と思います。岩田さんは立派に任天堂の社長になりましたし、『ファミコン通信』(https://www.famitsu.com/)という雑誌の立ち上げもやっていますが、その時の部下だったやつが角川の取締りになって、みんな偉くなってしまったなと。私は二等兵のまま。でも二等兵っていいですよ。岩田さんは亡くなる前までサポートしましたが、「サイトウくんって俺たちと出会った頃とやっていること何も変わっていなくて、羨ましいな」と言われましたね。彼、本当はプログラマー志望で社長はやりたくありませんでした。頼まれて仕方なくやったと思います。二等兵はすごいいいですよ。偉くならない方がいいと思います。
私はものづくりを一所懸命して来ました。私はものづくりが大好きなんですよ。だから、ものづくりの最前線で戦う、二等兵がいいんです。
『共通質問』
思い出に残っているゲームはなんですか。
何でしょうかね。でもゲームの歴史の中で一番よくできているゲームは、スーパーファミコンの『スーパーマリオワールド』だと思います。「ルールと勝利条件」という本質的な目で見たときに、あれだけバランスよく出来ているテレビゲームはないです。すべてのテレビゲームのお手本になると思います。あのゲーム一本をゲームニクスの視点で徹底的に分析すれば、おもしろいゲームの法則が全部見えてくると言っても過言じゃないと思います。
それから『スーパーマリオ64』ですね。これは私も開発に関わりました。3Dアクションゲームは『バーチャファイター』とかいろいろありましたが、2Dのマリオを3Dにしようとしたときに、最初から完成されたものを作れたのがすごかったと思います。『スーパーマリオ64』以降のああいうアクションゲームの全ての原型になっていると思いますね。
サイトウ先生がゲームから影響を受けたことはありますか。
いろんな方との出会いをいただいたという意味では影響を受けたと思います。しかしながらゲームそのものから影響を受けたことはあまりないですね。常に演出的にどうなのかなという分析の対象でしかなかったので。でもゲームが出た頃は楽しんでやっていました。『ドラゴンクエストⅠ』とかね。それまでゲームというエンターテイメントがなかったので面白いなーと思いましたよ。皆さんは生まれた時からすでにあるけど、私の世代にはまったく新しいものでしたからね。そういう意味では、文化の発展にとにかくびっくりしたって感じです。だって、ファミコンの容量64KBだよ?スーパーファミコンの頃に1MBのハードディスクが2千万したんですよ。今1MBのUSBメモリが落ちていても誰も拾わないでしょ?
サイトウ先生にとってゲームとは何でしょうか。
楽しいもの。遊ぶ方はそんなに楽しんでないですけど、作る場所を与えてくれてありがとうございますという感じです。私としては環境が変わっていくのも面白いと思っています。またなんか新しいこと覚えなきゃいけないの?楽しい。みたいな。
常に新しい刺激があるというのはゲーム業界ならではだと思います。飽きないですね。でも、ゲームニクスにシフトしていったのは、ゲームで表現できるものはあらかたやってしまったかなと思っているから、というのもありますね。
でも『スプラトゥーン』なんかは凄いと思います。だってインタラクティブに面積の変わる、塗った場所に潜りこんでいって、それをプログラムで判断して抜けて向こう側から出ていくなんて、企画を考えるのはいいですがプログラマーは相当苦しんだと思います。
停滞しない。新しく技術が開発されたら、その更新された技術に合わせて、あたらしい表現を試みる事ができる。私の教え子に映画監督になった人が何人かいますけど、『鬼ガール』を撮った彼に、映画監督を志そうとしているのにサイトウさんに最初に会って言われたことが、「映画なんて200年前の技術だからもう枯れてるよ」だったのがショックでしたと言われましたけど、そういう意味じゃゲームは枯れないメディアだから、彼に面白さを刺激として与え続けてくれたなとは思います。