creare - クレアーレ

「私事を私たち事に変える。それがクリエーターの役割なのかもしれません」

映像作家、前橋文学館館長、
多摩美術大学名誉教授、俳優
萩原朔美

映像作家、演出家、エッセイスト。多摩美術大学名誉教授。前橋文学館館長。
1946年、東京都出身。小説家でダンサーの萩原葉子は母、詩人の萩原朔太郎は母方の祖父。
1967年、演劇実験室「天井棧敷」に参加。
1970年映像作品を盛んに作る。アメリカ国務省の招聘により渡米。
1975年、株式会社エンジンルームを設立。パルコ出版よりサブカルチャー雑誌『ビックリハウス』を創刊。
1978年、多摩美術大学芸術学科非常勤講師に就任。翌年、同大学専任講師に就任。1988年、同大助教授、1993年同大学教授に就任。2016年、前橋文学館館長に就任。
2017年、多摩美術大学名誉教授。
●http://sakumihagiwara.com

・やりたいことはあるのです。でもなりたいものはないのです。

 私には肩書きがいくつもあります。たとえば20代のころに始めたのが役者です。寺山修司さんが主宰していた劇団「天井棧敷」に所属していました。そのあとには演出をやらせていただいて、それから携わったのが映像制作。それからビデオアートや版画制作とやっていって、次に広告や本を作る制作会社の株式会社エンジンルームを設立したんです。これは15年間続けました。30代のころはもうほとんど広告業界で働いていました。『ビックリハウス』という雑誌を創刊して、初代編集長を務めました。

 それからもさまざまなことに挑戦して、それに比例して肩書きも増えていきました。役者、演出家、映像作家、エッセイスト、版画家など。中でも映像作家は一番多く呼ばれます。それはもちろん今でも映像を作り続けているからです。ですが最近ではやはり役者が一番楽しいと思うんです。20代のころに戻ったような気がして気持ちいいんですよ、これが。

 とにかく呼び名が統一されてないんですけれど、どれもしっくりこないんですよね。自分の人生は肩書きに向かって進んでいない、ということなんでしょう。「あれになりたい」とか「これになりたい」とか、今までそんなふうに考えたことは一度もないんですよ。やりたいことはあるんです。でもなりたいものは今でもありません。

 その他、多摩美術大学の教授や専門学校東京アナウンス学院などで講師もしていました。

・前橋文学館のメッセージをデザインしてお客様に伝えなければいけないんです。

 昨年に前橋文学館の館長に就任いたしました。初めは名誉館長をやって欲しいと言われたのですが私は「名誉職にはなんの興味もありません。館長だったらお受けします」と言ったんです。とにかく文学館に対して気に入らないことがたくさんあって、変えたかったんですね。

 前橋文学館がそうだったんですが、市役所で働いてきた文学の「ぶ」の字も知らないような人が館長として就任するのが常習化していたのです。ですから、お客様を迎えるという意思がまったく見えなかったんですよ。

 「言葉というのは一言で人生を変えてしまうほど重たいものなんだ」というのを文学館が教えないでいったい誰が教えるというのでしょう。今ある文学館とは、たいていいばっているんですね。「文豪のすばらしい作品があるから学びに来なさい」というふうに。どうしてカフェみたいに誰でも気軽に来たがるような建物を造らないんでしょう。建物がいばる必要がどこにあるんでしょうか。

 基本的に建物というのは、威嚇か求愛でできているんです。教会や寺院などは威嚇をするんです。甍や屋根が突き出ていて、建物自体も大きくしていて。神と出会う場所ですから、威嚇をして敬虔な気持ちにさせるんです。

 逆にデパートなどの大型店舗やブティックは求愛をするんです。「どうぞ来てください」と求愛のサインを出すんです。それをわかっていないのが、日本の文学館なんです。700近くあるのにも関わらず。

 前橋文学館も着任したばかりのころはひどいものでした。入り口入ってすぐのところがゴミ置き場になってたんですよ。今は全部撤去して、売り場に変えました。また、入り口左側のカフェがあるところは、以前は自動販売機が2台置いてあるだけだったんです。

 また、お客様を迎えるためには、温かい雰囲気を演出しなくてはいけないんです。それはもう入り口である扉からしてそうなんです。前橋文学館は両開きの扉なんですが、これが押して開けるタイプの扉ならそんなことはないんですが、残念なことに凸レンズのように入る人を圧迫するんです。でも壊せないと言われて仕方がないので、入り口の前に手書きの黒板を置いたり、フラッグを外に出してはためかせたりして“求愛のサイン”を出したんです。

 お客様に歩み寄って「私たちはこういう状態です」というメッセージをデザインしなくてはいけないんです。動線の計算やビジュアルのメッセージ性、店舗の演出。そういうのを全部考えて造らなくてはいけないんですよ。

 ほかにも壁やガラスに詩を貼り付けたりして、入ったら詩、どこにいても詩。詩、詩、詩、詩。もう無理やりにでも出合わせてやろうと目論みました。

 文豪の原稿をガラスケースに入れているだけはもう古い。いや、文豪という言い方からしてもうダメですね。隣のおじさんの仕事をちょっとみてやろうかな、という気軽さでいいんですよ。弥生美術館の『谷崎潤一郎文学の着物を見る』展に合わせて出版された本に「百年経ってもいかがわしい!!」と帯に書いてあったんです。これですよ。いかがわしいんですよ、谷崎潤一郎は。

 でもいかがわしい変態オヤジだと思って読んでるうちに『少将滋幹の母』で涙してしまったりしてそれが“出会い”なんです。入り方はどうだっていいんです。

・人々の記憶に残るデキゴトを仕組んでいかなければと思っています。

 出会いというのはとても大切で、それは人はもちろんデキゴトでも同じです。文学館という建物はあるのですが、お客様は建物を見に来ているわけではないんです。

 たとえば前橋文学館ですと、私の祖父にあたる萩原朔太郎の生い立ちや人柄に触れる。それは萩原朔太郎との出会いでもありますし、また展示室を作り上げた人たちとの出会いでもあるんです。いかに萩原朔太郎に出会わせようかと考え、物語やデキゴトを仕組んでいるんです。

 これが映画館になりますと、その映画館での体験、そこでどんな映画を見たかという記憶、思い出が残るんです。ですから映画館が壊されるとなったときに、建物が壊されるということよりも、そこで起こったデキゴトが壊されるという認識になるんです。

 そういう意味では、モノよりコトなんですよ。ですから私は“記憶に残るデキゴトを仕組んでいこう”と考えているんです。

 以前「パノラマ・ジオラマ・グロテスク 江戸川乱歩と萩原朔太郎」展をやったとき、入り口に「変態だっていいじゃない」とか「ぐろくて、かわいい!」とか書いたんです。

 そしたら「文学館としてどうなんだ」とクレームが来たんです。それで私は喜んだんです。クレームが来ないとダメなんです。それも反響ですから。大事なんです。

 やはり人様に足を運んでいただくには、根本から変えなくてはダメなんです。それこそ若者層を取り込んだり、あとは県外からお越しいただいたり。それにはいろいろ挑戦をしていかなくてはなりません。