・”締め切り”がなければ、きっと『大怪獣映画 G』は完成しませんでした。
プロの監督になるには、助監督の経験を積んで出世していくのが基本的な流れです。助監督にも段階があって、サード助監督、セカンド助監督、チーフ助監督と主に3段階あります。サード助監督というのは、カチンコをやったり、雑用全般を担当するんですが、理不尽なこともあり、とにかく大変なんですよ。たとえば俳優さんを出番だから呼んでこいと言われて控え室へいくと、担当の人にお前が話してなんかあったら大変だから来るなと言われてしまう。戻ると怒られそうだから、控え室とスタジオの間でただただ泣いている、みたいな。でもそんな経験も今にして思えばよかった、と思っています。根性がつきますし、理不尽なことの躱し方もわかってきますから。あの時期を耐えてこそ今の自分があるんだな、と思っています。二度とやりたくないですけど。
それでも中には続かない人もいるんですよ。本当に辛くて、辞めていく人が後を絶えないんです。私は運良く『大怪獣映画 G』で機会を掴んで商業監督になれましたが、それもすべて現場での下積みのおかげなんですよ。演出・美術・合成の技術を身につけることができた。でもそれは当時まだ特撮の現場がたくさんあったからなんです。とくに『ゴジラ』シリーズは毎年やっていましたから。今は『ウルトラマン』シリーズの現場か、特撮研究所か。ほとんどそれくらいなんです。
そこで始めたのが、私が主催で行っているイベント、全国自主怪獣映画選手権なんです。始まりは突発的で、『大怪獣映画 G』の上映会に米子映画事変のスタッフの方来ていたんです。そこで知り合いになって、「米子映画事変というのがあるんだけど、よかったらゲストで参加しませんか」と呼んでくれたんです。そして米子映画事変の主催者、赤井孝美さんと知り合いになりました。
それから毎年呼ばれるようになったんですが、2年目に「なにかイベントをやってくれないか」と場所と時間を渡されたんです。そこで自分の自主制作映画を上映してもよかったんですが、米子が自主怪獣映画『八岐大蛇の逆襲』の聖地であるということもあり、自主怪獣映画を上映する場を設けたら面白いかと思い至りました。それで試しにツイッターで「自主怪獣映画の上映会をやるので出品したい人は連絡ください」と書いたんです。そのときは本当にツイッターだけでほかに宣伝なんてしてなかったんですけれど、想像以上に集まったんです。みんな溜まっていたんでしょうね。結構すごい作品がいっぱい出てきて第1回は大成功したんです。それ以降、各地の映画祭にゲストとして呼ばれるたびにやらせてもらっているんです。
それには目論見がありまして、自主映画の上映会が1つの締め切りになるんですよ。学生のうちはどうしても締め切りがないと怠けてしまいます。もちろん、みんながみんなそうではないと思いますが、なにより自分がそうだったんです。ですから『大怪獣映画 G』も7年かかってしまって、にいがたインディーズムービーフェスティバルがなければ完成しなかったと思うんです。しかし学生は締め切りさえあれば、それを目指して作るという熱意も十分あると思うんです。
そういうことで全国自主怪獣映画選手権を続けていて、締め切りがあり、確実に人に見てもらえる場所があり、そして私と知り合える場所でもあるんです。それはつまり現場に繋がるということで、やる気のあるやつや手先の器用なやつはどんどん現場に入っています。あんまり長持ちはしてないみたいですけれど。
日活芸術学院の同期でも入学当初は200人ほどいましたが、2年生に上がったときで100人。その中から現場にいった人が50人ほどで、今現在でも活躍している人は10人から20人くらいだと思うんです。それほど過酷な環境で、相当好きでないと続けられません。それに加えて、商業ですからもちろん誓約が多いんです。特に『ウルトラマン』などの子ども向けの番組はやってはダメなことや販促などやらなくてはダメなこともあるんです。
・私にとっての自主映画と商業映画は別物なんです。
自主映画はお金が自腹だし、スタッフ少ないしでやれることは限定されますが、自由な発想でただ自分がやりたいだけのことをやれたりもします。たとえばスタッフがいない、照明もない、代わりにカメラを好き勝手に振り回せる。急にカメラが回り込んで後ろが映っても問題なかったり。そんなのばかり撮っていたので、時々商業作品でもそんなことがしたくなってしまうんですよね。
ですがちゃんとした商業作品で同じことをしようとすると大変です。スタッフ全員も機材も隠れなくてはいけなくなります。とくに長回しをしようとしたら、段取り決めて、仕掛けを作って、照明をセットしたら全員隠れて。それからスタートの合図を出してしばらくして、静かになったと思ったら覗いてみて、終わっていたらカットの合図を出すんです。撮影以外のスタッフは誰も本番を見てません。それでモニターに出してチェックして、ダメだったら撮り直しです。だったらカットを割ってしっかり撮っていった方が早いんです。しかしスタッフも「これはいつもと違う面白いカットになるぞ」と思ったら気合い入るんで、ちょっとしたお祭り状態で、成功したら拍手が起きるくらいです。
私はとくにドキュメンタリータッチな映像が好きで、中学生のころから自主映画でカメラを回し続けていたので、ファインダー越しの映像にリアルを感じるんですよ。それでずっとやりたかったことが『ウルトラマンX』の『激撮! Xio密着24時』という回でできたんです。ワンカット内で怪獣が現れて、人が逃げてて、ウルトラマンに変身するとこまで。それはもう感激でした。
自主映画みたいなことを商業映画のスケールでやると、新鮮な画が撮れたりするんですが、やはりとても大変です。逆に資材を投げ打って、ちゃんと許可された場所を借りて、『ウルトラマン』シリーズでも特殊効果…火薬を使った爆発表現を担当しているプロの操演さんを呼んだりして好き放題な自主映画を撮ったりもしました。仕事は商業映画で、趣味は自主映画という感じです。
しっかり予算がある商業映画じゃないとできないことも当然たくさんあります。『THE NEXT GENERATION パトレイバー』で走っているパトカーの前で爆発を起こしてひっくり返るというシーンを撮ったんです。もう最高ですよ。この仕事をやっててよかったと思った瞬間です。プロとして仕事でやる商業作品はただ自分のやりたいことを自由にやるというわけにはいかないけれど、やるべきことさえちゃんとやれば、夢にまで見たようなことが実現できるんです。
・押井守監督と樋口真嗣監督は、二大巨頭です。
数々の商業作品を撮って来ましたけど、一番印象に残っている作品は2012年の『ウルトラゾーン』です。なぜかと言いますと、自分のスキルをフル活用できたからなんです。『ウルトラゾーン』は予算がなさ過ぎる作品で、自主制作映画で培ってきた技術が大いに役に立ちました。それと同時に商業監督としての経験もないと撮れなかったものだと思うんです。
ドラマパートと呼ばれる短篇は全話監督で、編集・合成のほとんどと何話かの脚本を自分でやりました。かなりの部分を自らの手で制作したんです。
前の話の編集・合成をやりつつ、今回の撮影を行いつつ、次の回の脚本を書いていたんです。もう頭の中がぐちゃぐちゃでした。でもそれはそれでよかったと思います。今のところ人生で一番大変な仕事だったんですけど、その分凄く愛着があるんです。
自分にとっては腹を痛めて産んだ子のような感覚です。関わったスタッフたちとも「あの仕事はヤバかったけど楽しかったよね」と、よく話します。
そういった経緯で『ウルトラゾーン』のプロデューサー、大月俊倫さんと信頼関係が築けたんじゃないかなと思います。ある正月に大月さんから突然電話が掛かってきて、「今ゴールデン街で飲んでるから来い」と言われて、正月でまったりしていたところを急にシャキッとしていくことになりました。そして向かった先で出会ったのが、園子温監督だったんです。
そのときが初対面でしたが楽しい飲み会で、時間を忘れてしまって終電がなくなってしまったんですよ。それで園子温監督の家に泊まって、そのときちょうど作っている最中だった映画のラッシュを見たんです。そこで私が何気なく「ここの合成ズレてますよ」と言ったら、大月さんに「お前1回本編全部見て、合成が駄目なところ全部列挙しろ」と言われて、それで2人が寝静まった中、1人映画を見てチラシの裏に書いていったんです。
ですがそれが結果的に、園子温監督の信頼に繋がったようで『ラブ&ピース』の特技監督の仕事が正式に決まったんです。本当はもう特撮だけの仕事はやりたくないと思ってたんですが、この仕事は本当にやりやすかったです。園子温監督と大月さんが本当に信頼してくれて、特撮に関しての一切の口出しをしないどころか、ほかの人が「こうした方がいい」みたいなことを言ってきたら庇ってくれるほどだったんです。
クライマックスの10分にも満たない特撮パートに大きな予算をくれて、妥協のない仕事に取り組めたんですよ。一番贅沢な特撮を撮れた仕事でした。園子温監督自身もとても刺激的な方でドラマパートの撮り方など勉強させてもらいました。
そのときが初対面でしたが楽しい飲み会で、時間を忘れてしまって終電がなくなってしまったんですよ。それで園子温監督の家に泊まって、そのときちょうど作っている最中だった映画のラッシュを見たんです。そこで私が何気なく「ここの合成ズレてますよ」と言ったら、大月さんに「お前1回本編全部見て、合成が駄目なところ全部列挙しろ」と言われて、それで2人が寝静まった中、1人映画を見てチラシの裏に書いていったんです。
そして同じくらい刺激的な方が押井守監督です。私はもともと『機動警察パトレイバー』が好きで、当然押井守監督のことも大好きだったんです。ですから初めて会ったときの感激は今でも忘れていません。当時、私は樋口真嗣監督が事務所にしていた「Motor/lieZ」に机を置かせてもらっていたんです。偶然隣に座っていたのが押井守監督の実写映画の編集にもよく携わっている佐藤敦紀さんで、私の後ろを打ち合わせに来た押井守監督がよく通っていたんです。
それで私は私でパソコンの画面には怪獣なんかが映っていたりして、押井守監督も特撮が好きな方なので、度々「これなにやってるの?」と声をかけてくれたんです。そうした経緯で押井守監督とは知り合ったんです。それであるとき、『THE NEXT GENERATION パトレイバー』の話が上がってきて、初めは押井守監督、辻本貴則監督、湯浅弘章監督の3人でやるつもりでいたそうなんですが、佐藤敦紀さんが「1人くらいテレビシリーズの経験者がいた方がいいんじゃない」と私を推薦してくれたんです。
それで押井守監督が東北新社にかけ合ってくださって、4人目の監督として迎え入れてくれたんです。そうして『THE NEXT GENERATION パトレイバー』に参加したんです。押井守監督は本当に刺激的な方で、多少過激な発言もあるんですがいい関係を築けています。また一緒に仕事したいね、なんて言ってくださってます。
そしてもっとも、私の人生において忘れてはいけない人がいます。私の心の師匠、樋口真嗣監督です。初めて樋口真嗣監督に会ったのは『さくや妖怪伝』の現場で、そのときの現場は本当に楽しかったです。樋口真嗣監督は現場ではずっと笑っている人で、豪快に笑いながらOKを出すんです。
もちろん辛いこともあるんですが、でもそれも現場という感じがしてとても気持ちのいい場所でした。今でもはっきりと覚えています。それこそ樋口真嗣監督は平成『ガメラ』シリーズのころから憧れている方でしたし、人生の半分以上見つめ続けた人なんです。
オリジナルビデオ作品の『ロックドリルの世界』やテレビシリーズの『MM9』でも一緒に仕事できましたし、今でも一緒に映画にいくような仲で、公私共に素敵な仲になれたなと思っています。樋口真嗣監督が『のぼうの城』を撮っているときに、私がちょうど実家の北海道の室蘭に帰っていたんです。
それで『のぼうの城』の撮影が北海道の苫小牧というところで、室蘭から苫小牧は車で1時間ほどの距離なんです。それを知った樋口真嗣監督から「エキストラにおいで」と言われて父親といってきたんです。親子で甲冑着せられて、いっぱいいる雑兵の中にまぎれたんです。そのぐらいに分け隔てない仲なんですよ。私は師匠と呼びたいくらいなんですが、樋口真嗣監督は「弟子を取った覚えはねぇ」と舎弟と呼んでくるんですが、それでも嬉しかったりします。