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「はじめはこの仕事を継ぐなんて思ってもみなかった」

佐々木活字店 四代目店主
佐々木勝之

プロフィール

出身地:東京都新宿区 生年月日:1975年2月9日

◉株式会社佐々木活字店店
大正6年に活字製造販売業として創業。現在、鋳造→文選→植字→印刷の全行程を行っています。
また印刷材料販売、山櫻代理店として紙の販売も行っています。
所有活字の総数は約7,000,000文字以上。
●HP http://sasaki-katsuji.com/ FB https://www.facebook.com/sasakikatsujiten

・佐々木活字店の創業から戦後。

 活字の鋳造職人だった曾祖父、佐々木巳之八が日清印刷鋳造部の責任者をしていたのですが、大正6年に独立しまして佐々木活版製造所を開業しました。ですから、最初は活字製造業しかやっていませんでした。第二次世界大戦が終戦して、うちは昭和22年に再開したんですが、実は二代目、私の祖父はロシアのシベリアで捕虜になっていて、再開した2年後に日本へ帰ってきたのです。なぜ二代目がいない 2 年の間に再開できたかというと、うちに小林という大番頭がいたんです。活字業界ではかなり有名で、創業者の愛弟子だったのですが、小林さんが佐々木活字店を切り盛りしていたんです。そして、その小林さんと日本に帰ってきていた二代目の弟が偶然西武線の駅で再会して、堀切の印刷所に鋳造の手伝いに2人でいって、そこでやっていた人が廃業するという話だったので鋳造機を譲り受けて、そこから佐々木活字店を昭和22年に本格的に再開できたのです。その後、二代目が復員しました。

・100年続けられた理由

 客観的に考えると、うちが100年続けることができたのは「運」が大きいですね。やはり小林さんと二代目の弟が再会してなかったら佐々木活字店は終わっていた可能性が高かったと思います。その後も、活版が衰退して活字がなくなってきたときもちょうどバブル景気の時期で。活版印刷が衰退していたにも関わらず生活ができた。そういった偶然の重なりがウチが続いてきた理由の一つだと思いますね。あとは無だった。ただ無心に、脇目もふらずに、これしか選択肢がなかったから、100年続いてきたのかな、と思います。色々考えたらできないですね、この仕事は。

 創業時の業務は活字製造業だけだったのですが、昭和60年代に印刷機を導入して印刷事業も開始しました。やはり活版印刷が衰退して、活字の需要が少なくなってきたので、それまでは鋳造から文選までだったんですが、組版も印刷もやろうと。なんでもやっていかないといけなくなったわけです。

 実際に、私が学生のときにオフセット印刷に移行しようか、という話も出ていたくらいなんですよ。でも印刷業界があまりに不景気で、家業を継ぐことを兄と私はやめてしまって。そしたら三代目である私の父は、自分の代で佐々木活字店は終わりだから資金も大変だし新しい事業をやるわけにはいかないから、そのままやろうと、活版印刷を続けたんですよね。

 このようにして私は別の業界で働いていたのですが、90歳を過ぎていた二代目が危篤になって、会いにいったのですが、意識がすごくしっかりしていて。「おお、勝之きたか。こんな立派な跡取りいるじゃねぇか。」と言われまして。2代目はとにかく佐々木活字店を存続させることをうるさく言っていた人で、三代目がもうやめたいと言っていたときも、「ダメだ、お前の代で終わらせる気か、何年続いてると思ってるんだ、この会社は。」と言っていたくらい。この人まだ存続のこと考えてるよ、と思いながらも、その言葉が引っかかり、活版について調べだしたのです。そうしたら、活版が結構注目されていることがわかってきて、ぜひ活版を残して欲しいというような言葉を聞きまして、それでみんなが残せと言うなら残せたらいいな、という思いが出てきたんですよね。だからといって、前職が嫌いだったかというとそうではなくて、むしろ誇りに思っていたくらいだったのですが、私の性格でこれがやりたいと思ったら一直線にやりたくなってしまうんです。父にはかなり反対されましたし、商売になるなんてまったく思わなかったのですが、求めてられているのであれば残すべきだと思ったのでやってみようかなって。それがこの業界に入るきっかけになりました。

 私がこの仕事を始めたとき、先輩の鋳造職人で岸田さんという方がいたのですが、その方は考えが柔軟な方でした。この仕事は下積みが絶対必要なので、普通始めたばかりのころは機械を触らせてもらえないんですが、基礎から教えていただいて、どんどん鋳造機を触らせてくれたんですよ。だから、なんとか動かせることができたのですが、2年もたたないうちに岸田さんが亡くなられてしまったんです。一番困ったのは鋳造機に不具合があったときで、原因がわからないことが多くて。岸田さんに聞けばすぐにわかるのですが、原因を究明するのに1日半も費やしてしまったことがあります。

 活字を鋳造するのは、言葉で説明できない感覚が必要なんです。たとえば、鋳造機は革のベルトで回転させて動かすのですが、気候によって革の伸縮率が変化するので、回転数が変わってきます。岸田さんに教わっていたときも、鋳造機の動く音を聞かせてから、「こんくらいだから覚えて」と言うんです。覚えられるわけがないと思いました。始めたときは、活版に対して「深い世界だな。」と感じていたのですが、やっていくうちに活字ができないことが一番の問題だと気づいたんです。だから、シンプルに考えるようにしました。岸田さんが示してくれた基準をもとに、そこから自分の感覚を作り上げていきましたね。

・活版印刷の行程

 活版印刷は基本的に分業で、それぞれの工程に職人さんがいるんです。たとえば文選をメインにやっている方がいるんですが、その人はとにかく作業が早いんです。早いときは1日8時間で5000文字を拾うんですが、作業する手が止まらないんです。おそらく文字を探さずに、手が場所を覚えているんでしょうね。なんといっても小学生のときからやってる人ですからね。現役のころから早い部類の職人さんだったのも納得ですよね。

 昔の文選職人さんは基本的に歩合制で1日にどれだけ多く文字を拾えるかで賃金が変わってくるんです。ですから時間との勝負なので、昼食もざるそばをガァーッとかき込んで、またすぐ作業して、夕方になって仕事が終わったら番頭さんのところへいってお金をもらって帰る、みたいだったんです。そして朝出社するころには全部飲み代に使ってしまうので、財布はすっからかんになっているんです。

 また、鋳造職人と文選職人は仲が悪かったみたいなんですよ。鋳造機は油を差しながら回すんですが、油をいっぱい差したほうが当然機械の回転がいいのです。でも、その分活字に油がたくさん付着してしまうので、活字が油でくっつくんですよ。それで喧嘩になってしまって。どこの業界も前工程と後工程の職人は仲悪いんです。