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「自主映画を撮ろうというのはすごい自然な流れでした」

映画・映像監督
田口 清隆

1980年生まれ。北海道室蘭市出身。
1999年上京して、日活芸術大学(25期生)入学。
2000年日活芸術大学中退。
2007年頃に完成した『大怪獣映画G』が認められて、2009年『長髪大怪獣 ゲハラ』で商業監督デビュー。
●Twitter https://twitter.com/taguchikiyotaka
全国自主怪獣映画選手権Twitter https://twitter.com/akmcontest_info

・自主映画を撮ろうというのはすごい自然な流れでした。

 映画は特撮に限らず小さいころからよく見ていたんです。父親が映画が好きでよく映画館に連れられました。それに加え当時は金、土、日曜日の21時からは必ず映画がやっていた時代でした。中でもよく観たのは『ゴーストバスターズ』と『インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説』です。テープが擦り切れるくらい見返しました。それほどまでに映画というのが人生の根幹にあったんですよね。

 逆に言うと、それ以外のことにはあまり興味がいかなくて、唯一興味持ったことと言えば心理学でした。当時犯罪心理プロファイリングというのが流行っていて、それがすごい好きだったんです。映画監督じゃなかったらメンタル系の仕事を目指していたかもしれません。

 小学生のときは『ゾイド−ZOIDS−』が大好きで、当時『ゾイド−ZOIDS− バトルストーリー』という、いわゆるゾイド戦記の本があったんですけど、こういうのを自分でもやってみよう思って玩具を並べて写真を撮ったんです。でも当時持てるカメラといったらインスタントカメラくらいしかなくて、インスタントカメラって近くのものに焦点が合わないんですよ。だからかっこよく並べたつもりでも現像されてきたフィルム見たら全部ピンボケ。すごい挫折を味わいました。

 ビデオカメラで自主映画を撮ってみようと思ったのは中学生になってからです。それでたまたま仲の良い友達が持っていたから、試しに色々撮影してみたら「これは面白い!」となりまして。土曜日になったら友達を家に泊めて、夜通しビデオカメラ回していました。ですがどれも実験映像みたいなもので形になるようなものではなかったんです。

 初めて起承転結を意識したドラマらしきものが完成したのが、中学2年生の後半になってからでした。『NIGHT HEAD』というドラマのパロディを撮ったのが最初です。それから放課後は毎日のように撮りました。暇な人をかき集めて、「手伝ってくれ」と。友達からはよく、私が誘うときは「今日遊ぼう」じゃなくて「今日空いてる?」だったので、仕事発注されているようだったと言われました。

 そんな活動を高校時代まで続けていました。数本の長編を除いて、脚本なんて書かないで、その場で考えて撮るのがほとんどでした。当時は当然パソコンなんてないので、編集はビデオカメラをVHSのビデオデッキにに繋げて録画と一時停止を繰り返して行うんですよ。でも必ずと言っていいほどノイズが入ってしまって、レインボーノイズだらけなんです。

 それが嫌で、回ったらセリフを言ってすぐに切って、少し巻き戻してからまた録画する「その場編集」と呼んでいた撮影方法もありました。撮影が終わったときには編集も終わっている状態になるんです。後期はビデオカメラで使っていたHi-8のビデオテープならレインボーノイズが入らないことに気付いて、ビデオカメラ2台体制で編集していました。そんな調子で数え切れないくらい何本も撮りましたね。

 そんな毎日を過ごしている中、高校2年生のときに金子修介監督・樋口真嗣特技監督の『ガメラ2 レギオン襲来』が劇場公開されて、すごい衝撃を受けました。当時、「映画の仕事をしたいな」とはぼんやり考えていたんですが、その映画を見てからはもう決定事項になりました。「絶対にやる」と決意を持ったんです。

 そうした経緯で、今はもうなくなってしまったんですが、日活芸術学院に入りました。しかしそこには映画好きが集まっている割に、自主映画を撮ったことがあるという人がほとんどいなかったんですよね。だから夏休みに入ったら飲み仲間に「自主映画を撮ろう」と言ったんです。それからはもう毎日撮っていました。

 夏休みに1日1本状態で撮ったりしました。そして「そろそろきちんとした長編映画を撮ろう」という話をして、怪獣映画を撮ることにしました。それが『大怪獣映画 G』です。これが私の出世作になりました。

 いつも連んでいた飲み友集団「五幹」を核に、友人を次々巻き込んでスタッフをかき集め、1999年の終わりからミニチュアや着ぐるみを作り始めました。しかし結局完成するのは2007年。2000年に入り現場実習が始まり、みんな忙しくて在学中には完成しなかったんです。

 学校では成績優秀者から現場実習にいくことができました。そして偶然、『大怪獣映画 G』の主人公だった仲の良い友人に、特撮の現場実習の話が来て、自分は特撮に興味ないからと譲ってくれたんです。いったのは『ホワイトアウト』の特撮班で、平成『ガメラ』シリーズの特撮スタッフだったんです。その現場で「特撮の現場に参加したい」と言い続けていたら、「次の現場樋口組だけど、いってみるか」と声をかけられて2つ返事で飛びつきました。交通費が出せないとは言われたんですけど当時私は練馬に住んでいて、東映撮影所は自転車でいける距離だったんです。そして偶然にもその現場も東映撮影所だったんですよね。それで参加したのが『さくや妖怪伝』という作品の特撮班・樋口組なんです。クライマックスで松坂慶子さんが巨大化するシーンなどで助監督として働いていました。

 それから同じ年の夏に今度は『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』の現場実習があって、すぐに手を挙げていかせて貰ったんです。それが2年生のころです。そんな感じで学校と現場とをいったり来たりしていたので、その都度『大怪獣映画 G』の制作がストップしていました。本編、いわゆる人間ドラマパートは同級生たちが出演者なのもあり、在学中にある程度撮り終わった状態だったんですが、特撮パートに関しては技術がなく簡単にはできなかったんです。もうあれは完成しない。誰もがそう思っていたらしいです。しかし私は諦めていませんでした。

・自主制作映画を作る。それが監督になる一番早い方法だと思ったんです。

 私は『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』以降、『ゴジラ』シリーズの現場に呼んでもらえるようになっていました。実は『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』では最初は助監督ではなく制作進行という仕事をしていたんですが、途中でサード助監督の方が家庭の事情で抜けられて、その空いた穴に入れてもらえたんです。ですから実質的には半分制作部、半分助監督という流れで現場に関わっていたんです。

 翌年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』では初めから助監督として呼んでもらえましたが、さらに翌年の『ゴジラ×メカゴジラ』では「枠がないから助監督としては雇えない」と言われてしまったんです。

 そのころ、テレビシリーズの『ウルトラマンコスモス』の本編助監督をやっていて、よく特撮美術部屋のミニチュアを見にいっていたんです。そこで助監督をクビになったという話を、当時美術部で応援に来ていた三池敏夫さんに話したら「美術部だったら一人枠あるけど、来る?」と言われて、「やります」と即答しました。ですから『ゴジラ×メカゴジラ』では美術部として参加したんですよね。監督はクビにしたはずの私が現場にいるもんだから驚いてましたけど。

 またその現場で合成部の人と仲良くなったんですよ。自主映画を作っているんですが、合成ができないという話もしました。そしたら「うちでバイトすればいいじゃん」と言っていただいて、「日本映像クリエイティブ」という会社に入ったんです。それで『ゴジラ×メカゴジラ』では合成もやることになって、現場と仕上げ両方に関われたんです。ですから私の名前がエンドロールに2回流れています。

 翌年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』も美術で声がかかったんですが、せっかく仕事覚え始めた会社を1年で出ていくのはどうかということで、泣く泣く現場は断念して、合成部として関わりました。さらに翌年の『ゴジラ FINAL WARS』で再び三池敏夫さんに美術部で呼んでいただき「これで『ゴジラ』シリーズの現場は最後かもしれない、これ逃したらもうない」と、もう「なにがなんでもいってやる」と決意しました。それで話し合いの結果、現場が終わったら再び合成部として会社に戻ってくるということになったんです。

 それで美術部として現場に関わって、戻ってきて合成をやって。ですから『ゴジラ FINAL WARS』でもエンドロールで2回名前が流れてるんです。それが2004年のことで、それと大体同じ時期でしょうか。『仮面ライダー』シリーズの合成にも関わりました。『剣』~『キバ』までやっていました。一番多く関わったのは『響鬼』と『電王』ですかね。『電王』ではビルの崩しなどをやっていました。

 そういう経緯で合成の技術を手に入れたんですよ。それに加え『ゴジラ』シリーズの現場で知り合いが増えて、また学校の同期も集まったりして『大怪獣映画 G』の撮影が本格的に再開、2007年にようやく完成しました。

 自主制作映画を作ったのならコンペに出すという考え方もありますが、元々コンペものは怪獣映画を相手にしないと思っていたので全然目指していませんでした。唯一、にいがたインディーズムービーフェスティバルという自主映画祭は、監督が舞台挨拶をすることが条件で無審査上映という映画祭だったので、毎年自主映画を送って上映してもらっていました。前編、後編、完結編と3回に分けて『大怪獣映画 G』も上映しました。この映画祭が当時のモチベーションになっていましたね。

 それ以来、DVDを大量に焼いて名刺代わりに今まで知り合った監督やお世話になった方々に配っていったんです。ある集まりにいったときに樋口真嗣監督にお会いできて、以前から「完成したら見せてくれ」と言っていただいていたので渡したんです。

 それから2年後。樋口監督にNHKの『テレ遊びパフォー!』という番組からオファーが来たんです。その番組は視聴者参加型の番組で、視聴者さんが考えた怪獣のデザインを使って、怪獣映画を撮ろうという話だったんです。そこで樋口監督が「視聴者参加型番組でプロの監督が撮ってもつまらないでしょ。ちょうどプロと素人の半分くらいのやつがいる」とHNKに私を紹介してくれたんです。この企画の発起人だったみうらじゅんさんと打ち合わせをして、『大怪獣映画 G』も見てもらって、「これだけ撮れるなら」ということで話が決まりました。それが『長髪大怪獣 ゲハラ』という、私が始めて商業監督としてデビューした作品なんです。