玉樹真一郎

新しいことは「良い」とは限らないということ。また、コンテンツ作りの考え方についてお伺いしたいと思います。

 たとえばコンビニに行くと新商品を購入してしまいますよね。そもそも「新しい商品」というが宣伝文句になっていること自体がナンセンスだと思いませんか。なぜなら、新しいということは、それ自体が良いモノであると証明できる人はまだいないんです。それなのに、どうして売れるんでしょう? そう考えると、我々は実は「良いもの、良いこと」を求めていない、という結論にすら至れるわけです。これにはいろいろな考え方はあると思いますが、中には「新しいってことは良くなっているに違いない」という思い込みで購入するパターンももちろんあると思います。ですが私は、おそらくみんなこの世界に飽きていると思うんです。

 若い世代のみなさんだとそうでもないですと言うかもしれないですけれど、私は結構昔から世界に飽きている感覚があったんです。ひどいことを言いますけど、多分現実っておもしろくないんです。毎日変化を求めているんだと思います。これは『「ついやってしまう」体験のつくりかた』の第2章「驚きのデザイン」の話と近いのですが、我々はこの世界に疲れていて、しかも飽きているという風に考えた瞬間に新しいことの価値というのがスッキリと理解できるわけです。

 新しいものを取り入れれば、私の人生は好転するかもしれない、まったく違う方向性が切り開けるかもしれないという予想が成り立つわけです。だからこそ良いかどうかわからない新しいジュースを購入してしまうのでしょう。なので、やはり新しいことは価値があると思います。昔の私は「良いモノを作ればいい」という狭い価値観で生きていたんです。実は世の中はもっともっと、ただ良い・安い・便利とかそういうところではない価値観を求めているのではないかという気がしています。

 きっとこの記事を読まれている人たちは人一倍新しいことをやろうとしている方々だと勝手に想像していますが、それは自信を持ったほうが良いです。最後には絶対に価値になります。

 「つい」という話に戻りますが、「へその中って見たくありませんか?」 私はふとしたはずみにへそに意識がいったときに、見たくなります。これも「つい」っぽい感じがしますが。自分の肉体に関することは痛みとか快楽に直結するのでやってしまいます。しかも「えー!」みたいな驚きもあったりします。常に自分の肉体に近いところというのは気持ち良さと驚きとかが湧いてくるんです。

 つまりこのことをコンテンツを作るとき、デザインするとき、アートを創るときに応用してしまえばい良いということです。

 なので、「これは絶対おもしろいよなー」という体験を自分自身が持っていたら、それをそのまま作品にしてしまえば良いと思っています。私は「なにが自分の気持ちを変えているだろう」と常々自分を観察するようにしています。腹が立ったり、悲しくなったり、楽しくなったり。たとえば、娘の髪の毛をドライヤーで乾かしている時間。なぜかはわかりませんが、とにかく幸せなんですね。この幸せ感にまず気づき、そして言語化できるようになるまでに、何年かかったか。言語化できて、明確に意識できるようになると、ここにお金をかけるのは安いものだぞと判断できるようになって、値段が高めのドライヤーを買うこともできます。そして、幸せな時間をさらに楽しめるようになりました。

人は自分がいつ喜んでいるのか、意外とわからないものです。自分に対してアンテナを立てておかきゃな、と思います。「世の中に対してアンテナを立てろ」という言葉はよく聞くのですが、自分に対しても立てるべきではないでしょうか。

 

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