玉樹真一郎
今、青森県八戸市に住んでいらっしゃいます。転居のきっかけや、会社設立、また社名を「わかる」と命名した由来などをお聞かせください。
『「ついやってしまう」体験のつくりかた』の第1章で、「仮説・思考・歓喜」という三つの小さな体験をまとめて「直感のデザイン」と呼びました。本を書くにあたって、明確に名前をつけたわけです。しかし、もともとは、直感のデザインのことを「わかる」と個人的に名付けていたんです。「わかる」のことで『「ついやってしまう」体験のつくりかた』の後半くらいに「お客さんに寄りそうとはどういうことか」という話があります。良さや正しさを伝えることではなく、お客さんがこれをどう使って、自分の人生にどう活かせばいいのかが直感的にわかることのほうが大事で、それこそがお客さんに寄りそうことであるという話を書かせていただいています。
任天堂のゲームに限らず、ゲームなんてひとつも役にも立ちません。たとえば、洗剤を買ってきたら、間違いなく暮らしに役立ちます。冷蔵庫を買ってきたら役に立つ。でも、ゲームは買ってきたらなにに役に立つというと…役に立ちません。でも人間はゲームをやります。ではなぜ、人はゲームをするのか。その理由は、もしかしたら「わかりたいから」ではないかと考えています。
私は独立すると同時にUターンしましたが、田舎には良いモノがたくさんあります。正直びっくりするくらい商品や食べ物が良いんです。ですけど、良いことは売れることとは実は関係性がそんなにありません。どれだけ真っ当に正しく生産していたとしても、売れるとは限らない。そんな状況を打開するために、ゲームのノウハウを使えないだろうかと考えました。良さや正しさこそが本質なのだとしたら、ゲームは売れないし、田舎は死ぬしかない。でも、現にゲームは売れているし、田舎は良いところだ。良さや正しさを超えられる価値として、私は「わかる」という考え方を押し出そうと思いました。そんな思いから「わかる事務所」とつけました。
それから転居についてですが、ものすごく突き詰めて抽象度高めで言うと「死ぬとき後悔しない生き方」です。そもそも私は長男で、家は特に家業などしていたわけではないのですが、青森県八戸市で産まれて、大学進学で東京に引っ越して大学院で石川県に引っ越して、就職で京都に引っ越して、とどんどん実家から離れていくのが申し訳なく思っていました。たまに実家に帰ると田舎は田舎のままで、「なんだか…これでいいのかなぁ?」という感じがしていました。私が子供のころに遊んだ廃屋は今も廃屋のままの田舎。一方、私自身はいろいろな人とのご縁などに助けられて、元気で仕事ができて大人になって、お金もある程度手に入って。自分は成長できているのに、田舎はそのまんまというのは、なんかおかしくないか、と。
格好いい話ではないですが、田舎に帰ると食べ物がうまいとか、京都は気候が合わないとかしばらく働いて若干疲れてきた…みたいなところもありました。『Wii』の仕事でなにが大事かをひたすら考え続け、コンセプトをひたすら考え続けるうちに、自分に対する視点も変わってきました。なにを見ても、なにが一番大事なのかと考えてしまうようになりました。私自身に対しても、お前の一番大事はなんだ、ということを日常的に考えるようになったのです。 そんなこんなで、たくさんの考えや悩みを抱えながら仕事をしていましたが、ある日、あれ? この悩みって、田舎に帰って独立したら全部解決するんじゃないか?」と気づきました。といっても、3年以上は悩んでいるんですけども。 田舎に帰ってから、ものすごくすっきりしたことを憶えています。やり残しがなくなった感、といいますか。
といっても、京都での暮らしや仕事も、とても充実していました。今でも任天堂の大ファンですし、『Nintendo Switch』でも遊びます。ただひとつ、任天堂にいるときに残念だったのは、「もっとゲームの良さを伝えれば良かった、みんなに伝えたい」と思ったとしても、任天堂社員という立場では逆にやりにくかったんです。だって、任天堂社員が「ゲームをおもしろいよ!」と言ったところで、お客さんから見ればただの宣伝に見えてしまいますから。「こっちは本気なんですよ!」といくら言っても、まず信じてもらえません。その点、会社を辞めてしまえば、いくらでもゲームの魅力を伝えられる「こんな本出しました!」といってもいい。任天堂やゲーム業界の外側からなら、自由に「ゲームってスゲー!」と叫べる。それだけで、退職というのは非常に魅力がありました。
いろいろな考えや悩み、ゲームが好きと叫びたい気持ち。それらを一変に解消して「死ぬとき後悔しない生き方」をしようとしたら、結果的に会社を辞めてUターンしてしまった、というわけです。