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Pick! 10 Landscape&Writing works

   
『「大嫌い」と叫ぶことで「大好き」を表現する彼女』

香月 七音


 日に日にさみしくなっていく、夏。
土手の芝生の境目、コンクリートに、鈍色がぽたりと広がった。その後、一斉に足元で弾ける。激しくなった音の向こうから、蝉の鳴き声が聞こえた。
町田 高志(まちだ たかし)は、 屋根付きのベンチの軒下に立っていた。防災行政無線のチャイムが、そばで鳴り始めた。夕焼け小焼けの寂しいメロディが大音量で響く。むわりと立ち込める、芝生と土のにおい。やがて電子音は消えた。聞こえて来るのは雨音と、心音だけ。
向こうから、傘を差した彼女が現れ、堤防の階段を降りて来た。
雨に閉ざされた世界の中心で、中川 真由美(なかがわ まゆみ)だけが、輪郭をくっきりとさせて、存在していた。
傘を閉じて、高志のいる屋根付きベンチの下に来た。楽器ケースを片手に持っていた。
ブレザー姿で、スカートは膝丈。肩が大きく上下していた。頰がいつもより赤く色づいて、薄い唇は冷めている。白い息を、ほうっとけぶらせた。
気の強い印象を受ける、桃花眼を、じっと向けていた。
高志は口を開こうとした。しかし、ズキリと心臓が痛んだ。唇を閉ざす。すると真由美が前に出た。前屈みになって、耳を傾けた。
彼女の特徴である、漆黒の長髪。ストレートで、まるで水分を弾くような髪質をしている。白い指でこめかみの髪をかきあげた。上目遣いに高志を見た。目と目が合った。
高志は、こぶしを握った。
「好きです」
その言葉を口に出した途端、一気に膝から脱力した。
その場にへたりこみそうになった。踏ん張る。頭に血がのぼる。心臓が痛い。どくどくどくと。さっきよりも。
強烈なめまいを耐えながら、真由美を見た。
けがらわしいものに触られたかのような、残酷な上目遣いがそこにあった。
「気持ち悪い」
 侮蔑の混じった、クールな声音は、紛れもなく彼女のものだった。
「あんたさ。誰でもいいんでしょ」
彼女は駆け出した。
瞬く間にずぶ濡れになった。一瞬、重力に押しつぶされるようにつまづいた。それでも構わずに進んだ。楽器ケースもずぶ濡れになる。彼女の姿は堤防の奥に消えた。
せっかくの黒髪が、めちゃめちゃになっていく様を、ただ黙って見ていた。
ざあざあと耳障りな音が続いていた。やけどしそうなぐらい熱かった全身は、今では凍えてひびが入りそうだった。彼女の傘は、開きっぱなしのまま、その場に放置されていた。
けたたましくなった蝉の音を、ただ聞いていた。高志は——江戸川の土手に、置き去りにされた。

 ●

 空がどんなに晴れていても、朝の教室は憂鬱だった。
「ねえ、町田のやつ告白したんだってよ」
「どこで? 誰に」
 遠くの女子の会話の中に、自分の苗字を聞きつけて、心臓が跳ねた。
「真由美、すっごい目腫れてるよ。どうしたの?」
 真由美が別の女子に話しかけられていた。机に突っ伏す彼女。高志の席の隣にいた。
 ふとドカッと後ろから蹴られて、前のめりになった。
「雑魚。そこどけ。邪魔」
 金髪の女子生徒に脅された。
 高志がどくと、彼女はその席に腰かけた。上履きの足を、机に乗せた。
 真由美は、席からどいた高志を見ていた。
「は? 真由美ちゃん、どうしてこのキモを見てるわけ?」
 真由美はふいっとよそを向いた。
「昨日、話しかけられた」
「はー? ウケる!」
 周囲は爆笑。
 真由美は、高志を睨んだ。
「最悪」
 ピストルで頭を撃ち抜かれたみたいにショックだった。
 話しかけること自体が、彼女にとっては、嫌なことだったんだな。

 ●

 体育の授業はもっと憂鬱だ。
 高志はひとりで、体育館の隅に座っていた。
こうして端でじっとして、ただ、そこにいるだけ。
クラスメイトの準備運動の円を見ていると――思い切り、背中を蹴飛ばされた。
「このキモ蹴っ飛ばして遊ぼうぜ!」
「こいつサッカーボールにすればいいじゃん」
 蹴られた。何度も何度も。呼吸ができなくて、せき込んだ。
 体育教師は壇の下で腕を組んで、こっちを見ていた。何も手助けしない。
 我慢した。きっとクラスにひとりは必要な役回り。それが高志だからだ。
「今日はドッジボールだぞ。サッカーじゃない」
 体育教師がそう言った。背後で大爆笑が起きた。
「おまえのいじめ、タケセン公認じゃん!」

授業が終わると、片付けは全部高志ひとりでやる。
これが高志の体育の授業だった。
ボールを入れるかごを押して歩く。すると、ボールが思い切り肩に当たった。げらげら笑う声が体育館の出入り口から聞こえた。
でも、気楽だった。仕事があれば、居場所になった。ここにいてもいいって許された。
かごを動かしていると、後ろからボールが3つ、ぽとぽとぽとと入れられた。
 どきっとした。
振り向くと、真由美だった。
何か喋ろうとしたら、わき腹も首筋も、ずきずきした。真由美はずっと高志を見ていた。
 高志は逃げるように、倉庫にかごを運んだ。

 ●

 家に帰った。今日はいちだんと傷の箇所が痛んだ。湿布はていねいに貼らないと、冷たくて痛かった。
「お兄ちゃん」
 妹の美咲が話しかけてきた。高志はリビングのソファで、夕飯を待っていた。
「大丈夫?」
 美咲はまっすぐに僕を見た。
「……うん。大丈夫」
 心配させたくなくて、にこりとして、言った。
 美咲は悲しい顔になった。
「どうしてお兄ちゃん、嘘をつくの?」
 今にも泣き出しそうだった。



 高志の机といすが、校舎前の花壇に投げ捨てられていた。
机もいすも、花壇の花もぐちゃぐちゃだ。学校での高志の罪が、またひとつ増えた。
 事なかれ主義の担任が、かわりの机といすを用意してくれた。が、それはとても小さかった。曲げた膝が、机の下に入らなかった。
小学校低学年用の備品だ。年1で行われる、小学生をこの高校に招くときに使われる代物だ。
 クラスじゅうが爆笑だった。肩を殴られた。背中を蹴られた。「死ね」と言われた。
 でも我慢だ。泣いちゃダメだ。
「先生!」
 授業中だった。数学の教師の声をさえぎって、高志が立ち上がった。
「おかしいと思わないんですか? 見て見ぬフリなんですか!」
 クラスじゅうが息を呑んで真由美に注目していた。
「笑い声を無視して! いたずらを無視して! どうして授業を進められるんですか!」
 教室は、しん、となった。
「……お前はもう少し、賢いやつだと思っていたんだがな」
 数学教師が言った。
「中川、座れ。今回はおとがめなしにしてやる」
 あちこちからくすくす笑いが起こった。
 彼女は、下唇を思い切り噛みながら、静かに、座った。
 本当に申し訳なかった。

 ◇

「学校、行かなくていいよ」
 美咲に、リビングで言われた。
昨日の傷が本格的に痛み出し、高志はソファの上で動けなくなっていた。
「……どうして?」
 首だけ曲げて、美咲に言った。
「もういいよ。お母さんも言ってるよ。無理することないよ」
 美咲は……泣いていた。
 体を起こしたかったが、起きられなかった。全身が痛すぎて、どこが痛いのかわからなかった。
「その姿見てるの辛いよ。毎日が全然楽しそうじゃない。無理することないよ。別の道をさがそうよ」
 台所で料理をしてる母さんも、大きくうなずいていた。
 素直に、うんとは言えなかった。



「あんたさ」
 放課後の教室に一人でいた。真由美から声をかけられた。
 今日がこの教室に来る最後だった。
 部活動の掛け声や、楽器の音色が遠く響いていた。窓の外の空は無常な夕焼けだった。教室内は赤く熟し、窯の中みたいだ。これまでの高校生活4か月を照らされてるようで、苦しかった。
 高志は、返事ができなかった。
「何? おびえてんの? そういうのほんとむかつく」
 彼女の言葉に、うつむくしかなかった。
「言いたいことがあるなら言いなさいよ」
 でも真由美は、高志に話しかけられるのは嫌なはずだ。嫌がられることはしたくない。
 高志は考えに考えて、最低限に言葉数を絞った。
「ここで練習するのか?」
 中川は、毎日どこかの教室で、金管楽器を吹いている。
「あたしのことなんかどうでもいい。職員室が騒ぎになってる。あんたのことだよ。このままでいいの?」
「騒いでるって……」
「転校。タケセンと担任と数学の山本が、特に盛り上がってる。あんた逃げるの?」
 真由美はキッと睨んだ。まっすぐな目をしていた。
「ごめん」
 高志はこれ以外の言葉が、思いつかなかった。
「……あんた馬鹿!?」
 真由美が叫んだ。
「よその高校なんか、もっとひどいよ! タバコ吸ってるって! 暴力沙汰、流血沙汰も聞くし!」 
 真由美は涙声になっていた。土砂降りの日のように、崩折れそうだった。
「大っ嫌い!」
 真正面からそう言われた。
「……ごめんな。嫌な思いさせて」
「そういう決めつけも! あたしがどう思うかなんてあんたにわかるの!? 知りもしない知ろうとしないキモさ大っ嫌い! いつも他人の顔色うかがって! 自分のこと犠牲に
して! 痛みを感じないロボットみたい! 大っっっっきらい!」
 こうまで言われるほど、嫌われていたのか。
高志は絶望して目線を外した。
「何なの!? 言いたいことがあるなら言ってみなさいよ! あんたには無理でしょ! さよなら! 永遠に!」
 頭の中が白くなった。引き金が引かれたみたいだった。
 ――ここで逃げたら、ただ一度の初恋は過ぎ去ってしまう!
「俺は、好きだ!」
 押し込めていたものを、出した。
「好きだ! ……大好きだよ! はじめて見たときから! 中川さんがいたからこの学校を辞めたくなかった! 毎日楽しそうにしてる君を邪魔したくなかった! このクラスを壊したくなかった! 俺が我慢すればいいんだ! 好きだよ! でも好きって気持ちまでは我慢できない!」
「大嫌いなあんたに助けられて、心が動いた自分が大っ嫌い! 最悪!」
 ――時が止まった。そう感じた。
 夕焼けは、教室の壁に張り付いて、ずっと残ったままだった。
 学校じゅうが静かだった。
「……あんたなんか、嫌い……」
 彼女は泣きながら迫ってきた。
高志の胸に、顔を預けた。
「……真由美」
 ぽつりと、胸の中で呟いた。
「真由美。『さん』もつけるな。距離があるみたいで嫌だ」
 くぐもった声で言われた。細い腕が背中に回された。
「……真由美」
 そう呼んだら、胸の中で、顔が縦に動いた。
高志は、彼女を抱きしめた。


『「大嫌い」と叫ぶことで「大好き」を表現する彼女』 完